北欧・ヨーロッパ4カ国紀行

深川市収入役 今井 敏雄



〇はじめに
 環境の時代といわれる21世紀に入り、地方分権一活法の施行などもあって地方の時代がスタートした。地方自治体が自ら各行政課題に対応した個性豊かなまちづくりが求められている。
 こんな中で北欧・ヨーロッパ4ヵ国の自治体の施策を学び、その歴史、文化、自然に触れる機会を得たことは望外の喜びである。
各地の視察テーマは参加者で分担報告されるので私からは折に触れた状況とその感想を記すこととする。

《グローバル化と情報化》
● 今回の視察は昨年実施予定であったが9月11日のアメリカで発生したテロ事件で中止となった。その影響もあったのか、今回は千歳からアムステルダムの直行便がなくなり成田からの出発になった。
 この費用、時間ロスは大きく、機内のナビゲーションで表示される飛行ルートが成田から北海道日本海を北上するのを見て悔しい思いがした。
 早く千歳からの直行便を望みたいものだ。
 反面、1年遅れで今年2月からEUの通貨統一がありオランダとフィンランドがユーロである。国境があっても人の往来、物流が容易となることを考えると将来のEUが経済はもとより、政治上世界の強国となるように思える。
● 各国の光景であるが日本企業の進出と
日本の工業製品の氾濫である。訪問した国は農業をベースにした国づくりをしており食糧自給に努めている印象が強い。
 WTOへの強い関心を持ち逆に私たちに質問をしてきた。
 地球温暖化に関し京都議定書にも関心をもっていた。
 グローバル化を見た思いである。
● 10月15日17時30分ヘルシンキのホテル
に入ると部屋のテレビが日本の北朝鮮拉致家族の帰国を映していた。画面は見慣れているNHKのニュースであるが、念の入ったことに日本の自動車のコマーシャル入りであった。ストックホルムでも日本語放送が視聴できた。情報のグローバル化を示すものであろう。
● ヘルシンキからストックホルム間は海路の移動である。ホールで喫煙している時、突然若い男に声(英語)をかけられた。市長会の居上参事と二人で一応カンボジアの学生と分った。またハッキリとマンガと言うのだが我々にはチンプンカンプンである。でも「ニンテンドウ」・・任天堂と聞けば日本製のゲームらしい。また「ナカタ」「オノ」と聞けばサッカー選手であることは理解できる。
 世界で活躍する日本に鼻を高くしている自分と英語のできない自分が恥ずかしい。
 でも私たちが日本人であることは確実に通じた。外見で分ったのかもしれないが?
● ストックホルムの市庁舎は1923年竣工であるがノーベル賞の晩餐会(ホール)舞踏会(黄金の部屋)を行うことで有名である。旅の直前に今年は日本人の3年連続と同時に2人の受賞が決まったのを知っている私たち団員は小柴氏、田中氏がスピーチする演台で一人ひとりが立ち記念写真を撮った。
 両氏がここでどんな話をするか楽しみである。
● アムステルダムのアンネ・フランクの隠れ家は「アンネの日記」として日本でも良く知られている。この家に入る時の説明書(パンフ)は日本語のほか10カ国語にも及ぶのが並べられていた。
 平和を世界に発信するには当たり前かもしれないが、戦争を風化させない努力を見た思いである。

《オランダ》
● 昼過ぎに成田で乗った飛行機はスキポール空港に夕方5時頃に着いた。この間11時間半である。私にとって10月12日は31時間で最も長い一日(The Longest Day)を体験した。
 通訳でポーランド人のドローダさんの出迎えを受け初めてヨーロッパの土を踏む。
 秋も深まったような肌寒いなかホテルに直行する。築後100年を経たホテルが立派に感じるのは不思議である。どうも周りの風景に迷わされているようだ。
 国名オランダを辞書でひくとHolland//
Netherlandsとある。市長会のパンフによればオランダ政府観光局はNetherlands Board of Tourismと表記されている。標高が海抜下で地下の島がオランダであると知るのは、視察地アムステルフェーン市であった。
● その夜、日本を離れて初めて全員が揃っての夕食である。美味しいワインも手伝って皆さん饒舌で、地方分権、市町村合併、ごみ処理など侃侃諤諤である。
 中でも都会中心と言えるメディアへ地方から発信するにはどうすべきか? 首長に権限が集中しているが分担の方法がないか? 地方議会の改革が必要でないか? が特筆される議論であった。
● アムステルダムの街並は、17世紀に東インド会社の本拠地があり,多くの国々との貿易で栄華を極めたことを今日に伝えている。
 日曜日なので車も少なく、店の多くは休みである。ごく最近になって午後からデパートがオープンするようになったという。この運河のまちには自転車泥棒が多いそうである。
 1885年開館した国立美術館にはオランダ人画家レンブラント(夜警)、フェメール(台所女中)など展示されているが、当時の富裕な市民をお得意様としていたのだろう。
 次のゴッホ美術館にはフィンセント・ファン・ゴッホと彼に影響を与えたといわれるゴーギャン、ロートレックなど馴染みの画家の作品がある。今夏、札幌でゴッホ展があったこともあり親しみを感じ鑑賞した。
 その夜はホテルから近い運河の船着場にあるプチレストランで、寒い中での夕食であった。芋ばかり多い食事で今一であったが、ここが本拠地のハイネケンビールで乾杯できたのは幸せでした。

◎ アムステルフェーン市
 アムステルダムから小雨の中、一時間弱で着く。この地方は領主アムステルが支配しており漁業のまちであった。13世紀に水害を防止するためダムを造った。これが今のアムステルダムで、その後に干拓で造成されたのがこのまちである。
 スキポール空港もこのまちにあり、広い工業団地には世界の企業がある。日本の企業も沢山誘致されており在留邦人も約1,800人と多い。
 ここでは『アムステルダムの土地は市有、このまちは企業有』とさえいわれているそうである。
 不足している住宅地や工業団地とそのインフラは全て市が造る。その際必要となる隣接の農地は農地価格で市が買い取り事業化する方式である。
 将来を見越した計画と事業の実施に学ぶことが多い。
 余談であるがインターネットでアムステルフェーン市を検索すると、ヨーロッパで初めて囲碁会館を建てたとある。日本のプロ棋士岩本薫氏(9段,故人)が囲碁普及の拠点としたもので私の好きな囲碁がこのまちから発展しているのが嬉しい。日本の企業進出が文化の振興に役立っている思いである。

《フィンランド》
● スキポール空港から二時間半の飛行で昼過ぎにヘルシンキ空港に着く。気温1℃、小雪の天気である。いよいよ北緯60度の北欧にきた感がある。既に空港では岩塩と砂が散布してあるそうで、さすがスパイクタイヤの発祥地である。
 この国は1950年頃まで大国による占領と干渉に抵抗した歴史であった。対ソ連戦の敗戦によって、ソ連への賠償金が莫大であったがこのことで国内に一種のナショナリズムを巻き起こし、賠償金は5ヵ年(1948〜1952)の短い期間で完済した。これがその後の工業化の契機にもなり農業国から先進工業国に変わったといわれている。
 近世の歴史が似ていることもあって日本には親近感を持っているという。
 1952年オリンピックが開催されており友愛に満ちた大会として有名で、水泳の<フジヤマのトビウオ>といわれた古橋広之進、陸上の<人間機関車>といわれたザトペック選手は今も語り草になっている。

◎フォルサ市
 行政委員会室で市長(Tapani Venho氏)から歓迎を受けた。若い市長は選任されたばかりで、このまちの出身でないという。 市長は公募(応募約20名)で議会(43名)が指名選任し特別の事由がない限り65歳定年である。人口18,000人、周辺人口37,000人の紡績工業で栄えたまちで、今は食品加工、建築資材、金属加工、ITが主な産業のこの国では中規模のまちである。
 この地を訪れる日本人は少ないという。
 最初の視察は高等職業訓練校である。校舎は古い紡績工場の外観を残し改装したもので、そのレンガ造りは美しい。また使われていない煙突も残されたままで周りの緑と良くマッチしている。
 ここでは学校と企業が結ばれていて理論と実践を習得できるようになっている。
 さらに企業がその費用を負担して社員の確保を図っていることに特徴を見た。
 つぎがアグロポリス・プロジェクトである。これは国立農業試験場(MTT)の研究成果を事業化して地域の活性化に資するため、周辺の自治体が出資してアグロポリス(株)を設立した。(詳細は団員報告)
 地域としては農家戸数の減少が問題とされ農業者以外から農業従事者にならない悩みがある。これは日本とも似ていてサラリーマンの高収入、都会志向が要因であるという。
 広域自治体で力を合わせているこの会社はMTTと連携で単に農業生産に止まらず製品開発、マーケティング、ITを利用したネットワークなど農業クラスターとしての可能性があり地域一体の取り組みに見るべきものがある。
 将来は湖沼の多いことから観光と農産物の付加価値が重要と力説していたがまさに北海道と共通の課題と思う。

《スウェーデン》
● ヘルシンキを夕方6時近くに出港した客船は翌朝9時半ストックホルムに着岸した。緯度は高いが暖流が半島の沿岸を流れているのでさほど寒くないと聞いていたが今朝は強烈に寒い。真っ直ぐバスに乗り込んだ。
 旅も後半に入り食事にも大分慣れてきた。プチレストランの昼食には寒さも手伝ってか、全員がワインを注文する。この頃になれば食事のとり方も分ってくる。最初にスープと一緒に出るパンは少なくしないと後のメニューは消化できないボリュームである。余す原因はパンと知る。
 この国は第2次大戦後、速やかな経済発展を遂げ人口に比較して強力な経済を維持して高福祉国家として名高い。政治体制が立憲君主制で日本とは皇室外交でも知られている。
 スェーデンの地方自治はコミューンと県であるがその関係は私達には複雑で非常に分りづらいものである。国と地方団体の職員は全労働人口の三分の一で、政府、地方関連企業体を含めると40%まで高まるという。

◎ウプサラ市
 ストックホルムから64kmにあるこのまちに以前王室が住んでいた。建国の父といわれる初代国王がウプサラ城(要塞)を1523年に建設している。現在の市街地から5q離れた旧ウプサラは500年代には政治、宗教の中心地で栄えた。ここに大聖堂(150年の歳月をかけ1435年竣工)がある。
 また、15世紀の北欧最古の王立ウプサラ大学は今日では30,000人の学生が学んでいる。バイオ、医学、自然科学、環境の研究が有名と聞く。
 ここの教授から7人がノーベル賞を受けていると言う。
 この3施設は町の最も大切な宝と言っていた。
 ここでは環境保全が視察のテーマである。2000年に策定されたウプサラ2020(副題・・市のビジョンと戦略)のPR用冊子によると、この計画は今後数10年の土地と水利用の方針を示し住民、各団体、企業さらに周辺自治体の共同で課題に取り組むとしている。
 また、経済、社会さらに生態学上の利益を長期に亘って対応することが具体的に示されている。除雪や住宅暖房、ごみ処理などの行政サービスと肩を並べて汚染されていない空気や安心して飲める水のある環境を作り出そうとしているのである。
 これを実現する組織も徹底しているようだ。
 開発計画には環境大臣と各セクションがネットされており、コミューン、専門家(技師)、学校などから意見を求める仕組みである。上からの指示でなく下からの流れ(住民の意見)を基本として環境問題に対処しているのである。勿論啓蒙、情報の伝達が大切であることを強調していた。
 しっかりとしたコンセプトと長期に継続する信念が貫かれている。
 生ごみのバイオガス処理ごみ焼却場施設を視察した。ともに発生したガス、熱は全てエネルギー公社が電気、暖房、冷房、スチームとして利用し、さらにピート(泥炭)、林業廃棄物を主燃料にして市内の約95%の家庭や企業に供給している。
 この資源エネルギーを大切にしていることには驚きの一語である。
 ウプサラに限らずスウェーデンは湖沼や河川も多く水資源も豊富と言うが住民に節水を呼びかけているなど資源や環境に配慮した国づくりをしていると言う。

《スイス》
● 最後の訪問国スイスに向かうため早朝4時15分のモーニングコールで起床した。
 クローテン空港から三時間弱でチューリッヒ空港に着く。一週間ぶりのまぶしい太陽の出迎えである。暖かい陽射しは気持ちを晴れ晴れとし、グリンデルワルドに向かうバスは陽気な運転手のせいもあって疲れている団員も笑顔で明るい。
 車窓からの牧場が連なる緑の風景はより美しいと感じた。
 アイガー北壁を真近に見えるホテルからはミニチュア模型のように家々が散在しており絵に描いたような眺めである。
 少し経って夕映えの射す眺望は感傷的になるもので小さなテラスでタバコを燻らし暫し眺めた。
 さすが観光で国際的に有名な国である。
 翌10月20日は日曜日、シーズンオフとあってホテルの休業が目に付く。そして店舗もお土産屋を除き休みのようだ。
私達と同じように日本人の団体が朝から動き出している。8時過ぎの登山鉄道でユングフラウヨッホ(4,158m)に向かう。
 観光の目的で100年前に建設された鉄道であるが快晴に恵まれた幸運もあってか乗り心地は良い。山頂駅(3,454m)の外は氷のブリザード、なかの氷河のトンネルを歩いたがもう寒さはもうコリゴリの思いであった。
 明日の視察をするザンクトガレンにバスで向かう。山間部は道幅が狭く、カーブも多い。平地に近づくにつれて徐々に陽射しが強くなり車内の温度も高くなってきた。 山登りの時のマフラーをバッグに押し込みセーターも脱いだ。
 途中の高速道路では、日曜日は大型トレーラーの通行が禁止となっているため順調に流れ、4時間で到着である。

◎ザンクトガレン市
 8世紀に僧院(修道院)が建てられこれに付属していた図書館が世界遺産であると言う。当時宗教を学ぶには、まず数学、天文学、語学を修得する必要があったので図書館が設けられた。
 15世紀に印刷技術が発明される前の手書きの本が2,000冊に及ぶと言う。一冊の本は200頭の羊の皮が必要で手書きの労力を推察すると莫大な資金を要したと思われる。
 また、新教と旧教の争いが250年間も続きまちが城壁で分断されていた歴史を持つ町である。ここは標高約700mにあり農業を諦めて麻を作り繊維のまちとして栄えた。
 16世紀には海外まで進出しており当時の栄華を偲ぶ石造りの出窓が残されている。このまちは書籍と繊維のまちであると説明された。
 コンベンションと観光が視察のテーマであるが市長との懇談では観光は州が主体であるとの説明があって専らまちづくりが主題となった。
 人口約70,000人(スイスで七位)で小さくて足で歩けるまちと紹介され『見通しがきくまちはデメリットではない』という。
 スイスは自治体の自治権が強く都市間の競争(人口、企業誘致など)が激しく、マーケティング、企業誘致には最大の努力を払うと言う。
 市長は今後のまちづくりの課題を広域行政(共同)活動と国と州と市の経済調整をあげた。
 日本にも共通することであり思いを強くした。
 事前にマスコミの取材が申し込まれていて州をエリアにしているテレビ局と新聞社が終日、視察先に同行した。親松団長へのインタビューは『何故このまちを視察地に選んだのか?』『このまちの印象はどうか?』が各社の質問である。日本からの視察が珍しいこともあるのか熱心であった。
 翌朝のテレビニュースではトップで放映されたそうである。朝刊には載っていない。後日のようだ。

○おわりに
 出発の結団式で言葉も通じないことを知りながら国際交流に努めたい、旺盛な探求心をもってなどと表明したことが恥ずかしい。
 短い期間でしたが言葉も人種も自治体の制度も異なる国々を見聞させて頂き書ききれない沢山の発見と思い出ができました。
 帰国のJALの機内食に鶏そぼろ丼や竹の子の山菜煮がでた。ザンクトガレンのテレビ局のインタビューで、スイスの食事は美味しい、サラダが特に美味しいしチーズも美味しいと答えたが日本の米が最高ですと言うべきだった。
 この素晴らしい視察研修を企画敢行された市長会の皆様と終始団員をリードされた親松団長、日通旅行の佐野添乗員に心から感謝申し上げますとともに、一緒に行動いただいた団員各位にお礼申し上げます。



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