基 調 講 演

「都市の自立、市民の自立」〜個人主権と行政〜

北海道武蔵女子短期大学 学長  小 林 好 宏

 ご紹介いただいた小林です。本日は1時間ほどで私の話を終え、できましたらフロアから質問などを出していただき、議論したいと思っております。
 パターナリズムという言葉は聞き慣れないかもしれませんが、先ほど、平澤企画委員長から解説がありました。これは「父権主義」などと訳すこともありますが、意味合いからすると「温情的な干渉」、つまり、子供がこうしたい、ああしたいと思っているのに対し、「お前はこっちを取った方がいいよ」と言う。子供はマンガの本が読みたい。先生は、マンガの本を読むよりは、経済学の本を勉強しなさいなどと言います。これは干渉です。つまり、個人の主体的意志にある程度反して、先生や親が干渉する。でも、それは生徒や子供のためを思って言っています。そういう意味で、「温情的な干渉」とでも訳すのが一番妥当な言葉かもしれません。
 私はこの春、『パターナリズムと経済学』という本を出版したばかりで、そこからテーマをとった理由を言いますと、最近の流行語といえば、自己責任、個人主権、市場主義、競争原理などがやたらと使われています。失われた10年といわれる90年代くらいから、とりわけ言われるようになりました。平澤企画委員長の話にサッチャー時代の話題がありましたが、その時代はまさに、その流れのきっかけと言うことができます。1980年代以降、世界全体に広がったその流れが日本にも及んでいます。それが今も続いていると言うことができます。
 パターナリズムは、そういう流れに対して対極をなします。ちょうど正反対です。むしろ、政府が個人の行動や意志決定にいろいろ干渉してくるのがパターナリズムです。我が国は、どちらかというと非常にパターナリズム的な、パターナリスティックな傾向が強い。あるいは、保護主義とは少し違いますが、やや似たところがあります。個人の自由や、自主独立と裏腹の関係にある自己責任というのと保護主義は対極をなす考え方です。その保護主義にやや近い。そういうニュアンスを持った言葉であるということを念頭に置いてお聞き頂きたいと思います。
 こうしたことを敢えて言うのは、私は経済学が専門ですが、ここ10数年、私が所属しているいろいろな経済学の学会等での議論、世の評論家の方々が種々の場で様々なことを言うようになった議論。特に、90年代、バブルの崩壊以後、やかましく発言するようになった議論。つまり、日本は変わらなくてはならない。今までの考えは古い、日本的経営はもう古い、年功序列などは時代遅れで、これからは成果主義・能力主義で行かなくてはならない、こういう議論、意見を皆が言い出しています。私はそれに異を唱えたいからです。 ついでにお話しますと、日本的経営は古いもので、変わらなくてはならないと盛んに言うようにりました。変わらねばならないものに賃金体系がありますが、企業は誰のものか、企業を統治するのは誰かといったとき、今までの日本的経営では、その企業で汗水たらして働き、内部から昇進してトップになった経営者です。それが日本的経営の特徴でしたが、それは古いと言われ出した。商法の改正などを間にはさみ、株主の権利が強調されるようになりました。法律的には企業は株主そのものです。このお話をすると皆さんも思いつくでしょう。ホリエモンさんとか、最近では三木谷さんらがテレビを賑わしています。ああいう人たちが同時期に出てきたということは、まさに時代の動きを反映していると言っても過言ではありません。
 つまり、今まで日本を特徴づけていたのは、企業を動かしている人はもともとサラリーマンで、ずっとそこに勤め、汗水たらして働く中で能力を発揮し、トップまで内部から昇進した経営者です。しかし、株式会社制度とはそういうものではない。経営者は株主によって選ばれるもので、究極的に企業を所有しているのは株主であるから、企業は株主のものである。今までの日本では、その株主の権利が無視されすぎていたということが、盛んに言われだしたのです。これも一つの例ですが、いろいろな面でこの10数年、大きな変化があります。最近テレビなどを賑わしている様々な現象には、全てそういうことが関係しているとご理解頂きたいと思います。
 そういう流れが本当にいいのか、という気持ちが私にはあります。自主独立や自立がいいと盛んに言うのは、本来なら自由経済社会の基本原則ですから、当然といえば当然です。しかし、これまでの日本は間違っていたのかと言えば、日本的なやり方にはそれなりの特徴があったし、意味があったはずです。それをもう一度見直し、本当は何が大事なのかを見ていかねばならないというのが、私の考えているところです。そのことを、都市という問題に当てはめて考えるとどうなるだろう。つまり、行政と市民の関係などに今の問題を当てはめて考えてみると、どういうことになるか、というのが本日の基本的テーマであります。
 つながってはおりますが、前段と後段に分けて、前段では最近の論調・風潮がどういうものか少しお話しようと思います。一口に言うと、地方圏にとっては極めて厳しい状況が続いています。いわゆる評論家などがしきりに言っていることですが、学会レベルでもそうです。私が属している経済学の幾つかの学会でも、いろいろなことが論じられています。例えば、公共投資を地域間に配分します。今までその配分は、大都市圏より地方圏に偏りすぎているという批判が激しくなっています。それを実証・論証することが、学会報告のテーマになっています。地方に公共投資を配分することは、投資効率からいうとはるかに低い、無駄だという議論が盛んになっています。ですから、世の中の論調一般がそうですが、学会での論議ですら、地方に対して極めて厳しい状況が生まれているのが現状です。特にここ10数年の傾向であります。
 これは基本的には、市場重視の考え方、市場主義と言っていい。もっと極端に、市場原理主義と言ってもいいと思いますが、それに基づいています。また、政治思想的に言うと、ここ20年くらいの傾向ですが、新自由主義などと呼んでおります。それが強まってきた時代に、だいたい照応していると考えていいと思います。
 最初に、この流れが持っている特徴を、経済学との関係で少しお話したいと思います。その上で、その流れの中で地方に住む我々はどうすればいいのか。大都市圏に対して地方と言っているわけですが、特に行政と市民との協働によって、魅力的な地方都市を形成していくにはどうすればいいか、というのが主要な問題意識であります。
 まず、最近の風潮・論調ですが、一つは中央政府から地方政府への資金の流れを、無駄とする議論が盛んになりだしたわけです。中央から地方への資金の流れを、もっと抑制すべきであるという主張が強まっています。小泉内閣の言う三位一体改革は、要するに地方交付税や国庫補助金、国庫支出金といった、中央から地方への資金の流れを効率的にして抑えるべきという主張です。さらに、公共事業費の削減も目立っております。また、公共投資の地域間配分が、地方に偏りすぎているという批判も非常に強まっている状況です。 さらにもう一つ、地域間の内部相互補助(cross subsidies)に対する批判が強まり、内部補助を正当化する論理が通らなくなってきたことを、特徴として挙げることができます。内部補助とは何かというとこういうことです。一つの企業が経営を多角化すると、伸びている分野から停滞している分野までいろいろあるわけです。その場合、伸びている分野により多くの資源を投ずるのが、経済理論的にいえば正しい。つまり、効率の良いところに資源を振り向けるのが合理的です。これは当たり前の話です。ところがそうせずに、伸びている分野でうんと儲けておいて、その黒字で伸びない分野の赤字を埋める。企業内部で補助金を出しているわけです。これを内部相互補助といいます。
 これを地域に当てはめたのが地域間内部補助で、典型的な例で言えば、旧国鉄のように山手線や中央線で大幅に黒字を出し、北海道の赤字を埋めるというやり方です。これは地域間の内部補助です。これに対する批判が非常に強まってきた。前々から批判はあったが、ここ10年来、とりわけ強まってきました。ただし、私はネットワーク産業と言っていますが、電力、ガス、水道など広い空間をネットワークで結んでいるような事業体の場合は、必ず起こるわけです。と言うのは、人口密集地は効率がいいに決まっており、過疎地は効率が悪いわけです。それを一元的に管理して事業を行っていれば、人口密集地で黒字を出し、過疎地の赤字を埋める方法になるのは当然です。電信電話もそうだし、道路公団もそうでした。要するに、東名や名神で黒字を出して、見たこともないのに、車より熊が走っているなどと言う大臣がいた。北海道の高速道路の赤字を埋める。これはけしからんと言うわけです。
 さらに極端な例は郵便事業です。大都市圏は郵便配達のコストがかかりません。大きなマンションに何百世帯も入居しているから、1時間も回れば1,000通くらい配達できるわけです。従って、1通当たりの配達コストは1〜2円で配達できます。北海道の中標津町で、隣の家まで1kmくらい離れている酪農村あたりに郵便配達をすれば、1通配るのに1,000円ほどかかるはずです。1日回っても、20〜30通ほどしか配達できないわけですから。しかし、郵便事業は全国一元的管理のもとに行っていたから、当然、東京都のように人口が密集しているところで出た黒字分で、別海町や中標津町で大幅に発生しているに違いない赤字を埋めていることになります。
 郵政民営化の良否を言っているのではないのですが、民営化に反対した人たちは、どちらかといえば地方圏の人が多い。つまり、地域ごとのコスト計算に基づいた料金体系を持ち込まれたなら、たちまち料金を上げざるを得なくなると心配する向きが出てきます。そのようなことなしに、日本全国どこに住んでいようと、ハガキは50円、封書は80円。情報の伝達に関して、どこに住んでいても格差がないのが望ましいというのは、シビル・ミニマムの一つの考え方としてあるわけです。それに対して、離れ小島に住んでいる人に同じサービスを供給し、料金も同じではおかしいという批判もあるわけです。それをどう考えるかという問題があります。
 私が言いたい点は、20年以上前は、例えば東京に住んでいる人が、東京では1通1〜2円だからコストがかからないだろう。なのに、ハガキ50円、封書80円を払うのは不当ではないか。中標津だけでなく、赤井川村でもいいのですが、そこでは1通1,000円以上かかるだろう。同じ料金は不当ではないか、とは決して言わなかったと思います。つまり、その頃までの国民に共通の意識、感覚はある種の平等主義で、それが社会的公正の論理に叶っていると多くの人々が思っていた。地方は不便であっても、同じ料金で郵便が配達される。それは良いことだと思っていた。これはある種、戦後民主主義の理念の影響がずっと続いていたと考えることができます。戦後民主主義を特徴づけた一つは、平等主義です。その影響がずっと続いていたのだろう。今では、東京都民は自分たちの郵便コストは低いのに、なぜ田舎と同じ料金を払わねばならないのかと、文句を言うようになった。そういう文句を恥ずかしげもなく言うようになったところに、最近の特徴があると私は思います。
 それをどう見るか、どう解釈するか。つまり、今やそういう文句を言う方が正論なのです。東名や名神のように、およそ高速とは言えない渋滞する道路が、北海道の道央縦貫道のように、スイスイ走っている道路と同じ料金でなくてはならないのか。そういう批判が堂々となされる。その方が正当な主張と思われるようになってきた。それが、ここ20年くらいの大きな変化であるということです。我々は、そのことを振りかえってよく考えてみよう。何も、地方は国にぶら下がっていればいいと言っているのではありません。決してそうではありませんが、世の中のそうした変化を我々がどう認識すべきか。どう考えればいいのかを、指摘したいわけです。つまり、地域間内部補助の論理は通らなくなってきたというのは、まさにそういうことなのです。
 これに反論しようと思えばできます。例えば、鉄道などの場合、人口が密集しているところは黒字で、過疎地は赤字が当然です。だから国鉄を分割すべきだ。分割民営化の際、内部補助は大事であるという立場から、分割反対論がありました。民営化はいいが、六つに分割するのは反対である。儲かるところで儲けて、地方の赤字ローカル線をカバーすべきという主張はありました。それに対して、JR東日本も北海道も四国も、それぞれ独立すべきだという主張の方が優っていたわけです。国鉄は単なる民営化ではだめで、分割民営化ということで地域ごとに分割されたいきさつがあります。
 その10年後に、NTTにも分割論議がいろいろ出てきました。民営化はするが、分割するかどうかは10年間ほど様子を見てから決めることになり、10年ほど経ってから分割をめぐる議論が出ました。あの時もそうでしたが、大都市圏は市内通話は黒字、地方圏では赤字でした。地方は長距離は黒字、市内通話は赤字なのですが、それを込みにしていたわけです。それを分割すると、東西に分ければ概して西の方は赤字です。そういう状態が起こり得たので、あれこれ議論して今のような状態になったわけです。その時もそうですが、地方圏に住んでいる者は、どちらかといえば分割反対でした。それに対して、大都市圏は分割しろという議論になったわけです。そういう議論が、だんだんと一般に広まってきたのが、昨今の状況であります。
 さて、そのような状況の中でもう一つ、地方圏に対する批判とは、公共投資の配分をめぐる議論です。よく指摘されていることであり、いろいろに言われています。尻馬に乗るつもりはなくても、事実上そうなっていると思いますが、実は経済学者もだいたいが地方に対して批判的です。例えば、政府間補助という言葉があります。日本の場合、国税を一旦中央政府に集め、それを地方に配分する。つまり、地方交付税などで地方政府に配分する。これを政府間補助と呼んでいますが、これがいかに非効率的でよくないかということを、様々な点から論証する論文がたくさん出ています。
 しかし、考えてみればそんなことは当たり前の話です。分かり切った上で、地方交付税などの制度があるわけで、政府間で補助するよりは、それぞれが独立して完全に受益者負担の原則でやった方が、効率がいいのは分かり切ったことです。しかし、財政制度はそれだけでなく、地域間の格差をなくすなど、いろいろな目的があり、地方交付税その他の制度ができているわけです。ですから、政府間補助は効率が悪いなどと、大発見でもしたような論文を書いているのは、私から言わせれば却っておかしい。そんなことは最初から分かり切っている。つまり、効率主義からいえば、市場原理主義だけで一貫してしまえば、最も効率的なのです。しかし、それだけではまずいからこそ、様々な制度があった。それを、再び市場重視の考え方で見直しているのが、今の状況であります。
 例えば、日本経済学会は近代経済学者の大半が所属する最大の学会ですが、昨年の大会で、日本の代表的な論者たちがパネルディスカッションを行いました。そのテーマは、「都市対地方−財政、公共事業、一極集中の是非をめぐって」でした。今年初めに発行された、「現代経済学の潮流」という学会の年報に、その記録が載っております。その中で、東大から現在は国際基督教大学におられる八田達夫氏が、『都市、地方間の財政配分について注目すべきことは、1970年代から、生産性の高い大都市から生産性の低い地方都市への財政的な再分配政策が大々的に行われるようになったことである。それによって、経済成長の原動力であった地方から都市への人口移動が止まり、日本の経済成長率が大幅に下がった。この財政配分には無駄が多い。東京で集中的に集めた税は、次の二つの枠で地方に再配分されるべきである。第1の枠は、自治体が競争的に使う交付金である。第2の枠は、義務教育・警察・生活保護など、全国一律であるべきサービス用の交付金である。これまで地方への予算配分は過度であり、歪みを引き起こすかたちで行われてきた。しかし、歪みを引き起こさないかたちでの再分配を行えば、財政配分の規模を縮小しても、地方財政サービスは向上させることができる。しかも、地方への配分を減らせば、その分大都市のインフラ整備もできる』と主張されています。
 八田氏はここで非常に重要なことを言っております。つまり、地方から都市への人口移動が経済成長の原動力である。これを止めてはいけないというわけです。70年代くらいから、それを止める方向に作用してきた。これはよくない。それが経済成長を鈍化させた原因だと言っています。地方では、どうやって人口の流出を防ぐか懸命に考えているのですが、人口が流出し、大都市圏に集まるのが経済成長の原動力であると言っています。それは経済学の論理から言えば、極めて当然な議論であるということを、賛否は別としてご理解ください。
 こういう議論の大事なポイントは、効率だけをみているということです。もう一つ大事なのは、日本国民全体の公平な、あるいは公正な所得の配分なり、生活レベルの維持、あるいはウエルフェアの維持ということです。財政政策のもう一つの柱は、そこにあるわけです。効率の達成も大事であるが、もう一つの大事な柱は、公平や公正ということであります。
 慶応大学の土居氏は、『都市と地方の関係を考える上で、現在において重要なポイントは、財政をめぐる受益と負担の不均衡である。地方部への財政支出の財源は、多くを都市部であがる税収に依存した状態で、それを国からの公共事業への補助金や地方交付税によって支えている。こうした政策は、政府債務が未曾有の規模までに累増した今日においては、早急に改めなければならない状況にある。公共事業で地域間所得再分配政策を行うべきではない。所得再分配は行ってよいが、大原則は個人単位で行うべきものであって、産業単位や地域単位で行うべきではない』と言っています。
 また、経済学者がよく使う議論ですが、『人々はより高い効用を求めて住む地域を自由に選ぶことで各地域の効用水準はやがて等しくなる。だから、効用水準が地域間で均等化する形で保たれる公平性は、政策措置ではなく、住民の自発的な移住によって導かれる』と言っています。これは経済学の理屈です。つまり、効用水準は地域によって違う。高いところがあれば、人々はそこへ向かって動いていくというわけです。人がどんどん集まってくると、その地域の効用水準は少し落ちてくる。逆に、出ていった方は効用水準が逆に上がってくる。やがて、社会全体から見れば、どの地域をとっても効用水準が等しくなり、国や社会全体の効用のレベルは最大になっているという議論です。地域ごとの効用水準がちょうど等しくなるように、人が移動すればいいというわけです。簡単に言えば、文句があればどこかに移りなさい、少しでも満足できるところへ移りなさい。それぞれ移っていけば、効用はやがて均等になるだろう。そのときが最適な状態である、というのが、経済学の当然の論理です。その当たり前の論理にしがみつき、語弊がありますが尤もらしく、いろいろ緻密な論理を展開している。しかし、基本に流れている思想は、そういうことなのです。
 受益と負担が最も一致するのはどういう状態かというと、市場原理が完全に行き渡った状態である。つまり、市場経済とは、受益と負担が一致する経済である。だから、受益と負担が一致すべきである。アンバランスになるのがけしからんと言うのなら、市場原理を貫徹する以外ないわけです。一番オーソドックスな、伝統的な経済学では、政策の役割とは市場の機構をできるだけスムーズに働かせるように、競争環境を整備するのが経済政策の一番重要な柱だと言うわけです。ですから、独占禁止法のような法律を重要視し、競争を維持する政策が中心であるべきだというのが、最も伝統的な主流の経済学です。競争するのが一番いい。その競争を妨げる要素は排除し、できるだけ自由な競争ができるよう、競争環境を整備する。それが政策の一番の役割であるというもので、アメリカで一番支配的な考え方です。要するに、自由競争を徹底させる、自由主義的な経済理論の根底に流れている考え方です。ですから、その論理は地域の問題を論議するのに、本当にあてはまるのかということです。そこは一番の問題であるということを、私は申し上げたい。
 この伝統的で主流の経済学の考え方について、もう少しお話します。この学会は都市地域学会ですが、地域経済学会などというものもあり、そこに所属されている方もおられると思いますが、敢えて挑戦的にお話したい。主流の経済学の一つの特徴は、方法論的個人主義といわれる考え方に立っているのです。それは、経済理論体系が、まず自立した個人を前提として成り立っているということです。個人は独立している。自分の意志決定が完全に独立に行われている。他人の行動によって影響されない。あるいは、他人が何を言おうと、自分の意志によって物事の選択を行っているという前提に立った上で、その自立した個人が合理的な行動をする結果、市場のメカニズムを通じて社会全体で望ましい状態が達成される、そういう仕組みを明らかにしていくというのが、一番伝統的な経済理論です。その考え方の根底にあるのは、個人や企業という個別の主体をベースに置いて、そこから理論を組み立てていく考え方で、これを方法論的個人主義と呼んでいます。これが一つの特徴です。
 もう一つの特徴は、均衡分析という手法を用いていることです。いろいろな行動をとった結果、市場を通じてやがて均衡する。均衡状態とはバランスした状態ですから、秤がどちらにも傾かない。どちらかに傾いているとすれば、偏りを調整するように作用し、結局バランスする。そのバランスした状態が最適(optimum)で、それを求めているわけです。個人個人は、自分にとって一番良い選択を行う。すると社会全体としても、最適になるということを示しています。それをもたらす仕組みが、マーケットメカニズム、市場機構である。これが経済学の最も根本にある考え方です。
 それを地域に当てはめるとどうなるか。例えば東京に若者が皆出ていく。地方には年寄りばかり残って、困った状態ではないかと言いますが、経済学の今の論理をあてはめれば、それは最適なのです。つまり、東京に行った人は、空気が汚れてごちゃごちゃしているが、所得水準の高さや文化的な機会の豊富さを求めている。東京に向かう人にすれば、その方が効用水準が高いわけです。地方に残っている人は、空気も水もきれいで静かだ。自分はこちらの方が満足度が高いから、こちらを選んでいる。つまり、どちらも人々が選んだ結果であると解釈してしまいます。そうすると、それが最適だということになる。
 確かに地方にいれば、文化的機会も乏しく、所得水準も低いかもしれない。しかし、そこに住んでいる人は、それよりもきれいな空気と水の方が大事だから、それを選んでいるというわけです。東京へ行った方は、混雑していて空気も汚く水も不味いが、所得水準が高く、文化やスポーツなど様々なものにアクセスする機会が多い。こちらの方が効用水準が高いから選んでいる。それぞれ、自分にとって効用水準が高い方を選んでいるから、その結果、社会全体としては効用水準が一番大きくなっている。だから最適だというわけです。だとすると、過疎など問題でないという理屈になってしまいます。
 どうしてそういう理屈になるか。一つは均衡状態で考えているからです。しかし、現実にあるのは、不均衡です。不均衡をどうしなければならないか、どう改めるべきかが政策の役割です。政府の政策、行政施策の役割は、世の中がバランスしていない、不均衡状態にあるから、どれをどう調整するかというものです。放置して均衡するのなら、何もする必要がないわけです。
 もう一つ問題があります。地域経済学における地域政策の第一の目標は何か。それは資源、特に人材が、ある地域から他の地域へ移動しようとするときに、移動を妨げるような要素があればそれを排除し、人の移動がスムーズに行われるようにするのが地域政策の第一の課題ということです。地域経済学のオーソリティの教科書に、そう書いてあります。経済学とはそういう具合になっているわけです。つまり、資源がいろいろな市場の間を自由に移動するのがいいことで、移動の自由を妨げるのはよくない。これは自由経済の基本原則です。市場が完全であるためには、資本も労働も自由に移動できなくてはならない。その移動を妨げるような要因はできるだけ排除し、資源の移動が自由に行われるようにする。それが政策の第一の課題であるというのが、経済学の理屈です。
 それを地域に当てはめれば、同じ理屈になる。地域間を人が移動するときに、それを妨げる要素があれば、それをできるだけ取り除き、人々がA地域からB地域へ、BからCへと自由に移動できるようにするのが、地域政策の一番重要な課題であると、地域経済学の教科書ではいの一番に書いてあります。しかし、地域で問題にしているのは、若者がどんどん移動して出て行ってしまう。これをどうするかを問題にしているわけです。
 どうしてそういうギャップが起こってくるのか。それは先ほど、方法論的個人主義について述べました。経済学は、方法論的個人主義といわれる方法論に立脚している。ということは、個人単位で考えているということです。個人の満足が一番大きくなるように行動することを良しとするわけです。その個人にとって一番いいのは、東京に住みたければ移動すればいいという理屈です。経済学は、何も北海道をどうするかという議論をしているのではありません。しかし、地域に関心を持っている我々が抱いている問題は、この地域をどうするかです。しかし、経済学のユニットは個人や個別の企業です。経済理論の上では、決して、札幌市だとか北海道という地域がユニットになっているのではありません。あくまでも個人ですから、なぜ地域をどうするかなどと言うのか。その個人が嫌だったら、好きなところへ移ればいい。その個人が、一番満足するように動き回ればいいのであって、その地域がどうであるかは問題ではない。経済理論から言えば、そういう理屈になります。
 それに対して、そうではないはずだ。我々はなぜ地域にこだわるのだろう。グローバリズムとか、グローバライゼーションなどと言うけれど、やはり国家主権というものがあるだろう。日本国というものがあるではないか。国家や地域など自分の属している国なり地域、あるいは企業や組織など、自分が属しているコミュニティや共同体を単位に考える側面を、我々は持っているはずです。ところが、主流の経済学はそうなっていません。そこが今日、主流を形成している経済学の大きな問題です。
 私の問題意識の一つは、主流の経済学の限界を明示することです。主流の経済学は方法論的な個人主義に立脚している。個人にとっての効用、所得や時間によってもたらされる効用が一番大きくなることが目的である。しかし、効用をもたらす要素は、それだけではないはずだ。自分の属している組の状態が良くなることが、個人の満足度にも影響するはずです。つまり、「家族の幸せは自分の幸せ」に通ずるものがあるわけです。同様に、北海道が豊かになることは道民の幸せ、札幌市が魅力的になることは、札幌市民の幸せである。個人の効用関数、つまり自分に満足をもたらす要素は、自分の所得だけではなく、自分が属している社会、コミュニティの状態がより改善されることで、個人にも影響を与えるということです。私は経済理論体系も、そのように少し修正することによって、もっと状況が変わってくるという考え方です。ただし、あまり分析能力がないものだから、なかなか上手く体系化することができず、能力のある人の助けを借りてもう少し追求したいと思っています。
 ところが今の主流の経済学は、自分が属するコミュニティの状態が入ってきていない。だから、地域経済学のテキストブックは、嫌ならよそへ移ればいいという理屈になっている。自分の住んでいる地域をどうするかが、本当は一番の課題のはずなのに、人の移動がスムーズに運ぶように、環境整備をしなければならないと書いているわけです。別の言い方をすれば、若者がもっと自由に東京へ出て行けるようにしましょう、そういう理屈になってしまっています。
 さて、そういうことで、自分自身が経済学を勉強している立場でありながら、否定的な話をしているのはおかしいのですが、そこをきちんと見極めた上で、経済学のロジックの重要性を認め、活用しながら地域や都市の問題を考えていきたいというのが、私の狙いであります。
 資料の「パターナリズムとは何か」をご覧ください。いきなりパターナリズムと言っていますが、それは先ほど来しきりに述べてきたように、市場原理主義、個人主権、個人の自立、自己責任ということが、現在の主流の考え方である。しかし、それは当たり前の話である。近代の市民社会の基本理念と呼ばれているのはそういうことです。18世紀頃からだんだん出てきた思想であり、何も新しいことではない。少し言い過ぎですが、19世紀頃には、ほぼ確立したと言っていい自由主義、あるいは市場原理のようなものが、今ごろ亡霊のように再び現れた。それが世界中に広まったのが、1980年代以降くらいの特徴であると見ることができると思います。今、盛んに我が国で行われている議論も、その延長線上にある。それでいいのか、ということを問題提起した上で、本日のテーマである市民や都市の自立という問題を考えてみようというわけです。考える作業は分科会にお任せするとして、私は、最初に敢えて逆の問題提起をさせて頂いているとご理解頂きたい。つまり、自立、自立と流行り言葉のように言っているが、本当にそれでいいのか、逆に問題提起しているとご理解頂ければいいと思います。
 パターナリズムというのは、その正反対であります。昨今の流行は、政治思想的には新自由主義などと言われている、元々19世紀の自由主義に“新”をつけたに過ぎないと言っても過言ではない。自由貿易主義、金本位制度が確立するのは19世紀の後半くらいです。少し批判的に言えば、それが今ごろ再び頭をもたげてきた。何も珍しくない、18世紀以来、欧米における近代市民社会の基本理念に過ぎないのではないか。
 それが20世紀に入り、若干変わる。皆さんよくご存知のケインズが登場し、1924年に有名な講演を行います。これは、「自由放任主義の終焉(The end of laissez-faire)」という有名な講演で、その2年後1926年に、「自由放任主義の終焉」というパンフレットが出版されます。そこでケインズは、伝統的な自由主義の時代はもう終わったと言っているわけです。ただ、彼は社会主義者ではなく、相変らず伝統的な自由主義、個人主義の理念に基づいているが、自由放任の時代は19世紀で終わったと言っています。そのケインズ主義の影響は、第二次大戦後、先進国に広まり、先進国の経済運営はケインズ主義と呼ばれるようになった。
 これが60年代まで続きますが、70年代くらいから第一次石油危機をきっかけにして、再び状況が変わってきます。その後、世界的に大きな影響をもたらしたのは、政策運営では世の中がうまくいかない、やはり、市場に任せておけ、民間の自由な活動に任せておけ、政府は余計なことはするなという思想が、再び支配的になってきます。それが今日の状況です。しかし、果たしてその状況でいいのか。政府はできるだけ小さい方がいい、それは確かにそうかもしれない。だがもちろん、その役割が不要であるということではありません。何をすべきか。政府と市民とか個人、その関わりをどのように見るか、どう考えるかが、大きな課題であります。
 そこで、そういった近代市民社会の基本原則、当たり前の議論でありますが、それが流行語のように盛んに言われている。証券会社のセールスマンの方が来て、いろいろな金融商品を売り込んでくる。最近はだんだん増えてきましたが、素人はリスクを負ってまで金儲けをしようとは思わない。いわゆる安全資産、元本保証である程度金利を保証してくれるようなものを希望すると、セールスマンは、そんなものはありません。ハイリスク・ハイリターンが当然で、これは今日、自己責任の原則ですからと言われます。私は、そんなことを言うなら、あなたが来てくれなくてもいい。自分でやるのだったら、自分で勝手に株を売り買いすればいいのであって、それができない素人は、元本保証で金利は少々低くてもいいから、きちんと保証してくれるものを望んでいる。セールスは手数料で商売をしているから、何でもいいから契約を取りさえすればいいかも知れない。
 そうではなく、証券業もそうですが、金融業はプロです。プロとは、素人に対して元本を保証し、リスクは自分が負う。リスクを負った代償として、儲けさせてもらうというのが本来のあり方です。つまり、企業家とは本来そうでなくてはならない。冒険してリスクを冒した代償として利益を上げるわけです。手数料を取って儲けるだけであれば、企業家とは言えないだろうと、嫌味を言ったりします。何しろ、自己責任を盛んに言うようになってきました。アメリカでは、高校生の頃から株売買の訓練を行っている。さすがに自己責任原則の国だと、分かったようなことを言われますが、私はそんな必要はないと言っています。
 とにかく、そういうことが余りにかまびすしく言われ過ぎてきた。それに対して、本当にそうか、ということを一度振り返り、考えてみる必要があるのではないかというのが本日申し上げたかったことの骨子です。自主性や自己責任と言うけれど、それで本当にいいのかということが、重要な論点であると申し上げたわけです。
 パターナリズムという言葉をそこで使っている。これはどういうことかと言いますと、個人主権、個人責任原則に対して、あなたはAを取ろうとしているが、Bを取った方がいい。それがあなたのためであると、個人の選択に干渉する。それがパターナリズムです。それが個人主権を旨とする個人主義の時代において、どういう場合に許容されるか。つまり、本来ならば、個人主義、個人責任原則とは合わないものです。しかし、どういう場合に認められるかというのが、一つの問題意識です。パターナリズムが認められる場面があるだろう。
 例えば、インフォームド・コンセントと盛んに言われている。医師と患者の関係で、患者は「手術が嫌だ。そんなリスクを冒したくない」と思っている。本人の選択は手術をしないことです。それに対し医師は、絶対に手術しなさいと言う。インフォームド・コンセントとは、患者に十分説明し同意を得ることです。合意することが正しいと言っているわけですから、手術を諦めることもあります。でも本当にそれでいいのだろうか。本当に良心的な医師であれば、患者がどんなに嫌がっても、絶対に駄目だと押し付けるわけです。その押し付けが、パターナリズムなのです。つまり、自信を持ち、責任を負っている医師であれば、患者がどんなに嫌がっても、自分がベストだと思う治療方法を選択し、患者に押し付けるかもしれない。それはパターナリズムなのです。
 同じことは教育でもあるでしょう。教育の場面で、子供の自主性を尊重しましょうとか、子供は本来同じような能力を持っている、それをいかに引き出すかが教育の重要な役割である、というようなことを昔から盛んに言っていました。本当なのだろうか。子供は、黙っていても自主性を発揮するのだろうか。本当は、先生が押し付けてくれるからいろいろな勉強をしているのではないか。それもパターナリズムです。それをきちんと見て取らなくてはいけない。
 本当にいい医師なら、患者の意に反してでも、自分がベストだと思う治療方法を選択するかもしれない。ただし、そのような選択をした結果、失敗したら全責任は医師にあるわけです。インフォームド・コンセントは、実に立派で大切だが、一部は患者も同意した選択を行っているわけです。それに対して、医師の良心として、あるいは自信を持って、一切の責任を負うからと押し付ける。本当にいい医師はこちらかもしれません。教育にもそういう面があるのではないか。つまり、パターナリズムとは保護主義、甘やかしの原理などいろいろ言うけれど、個人の自由や独立、自立などと言っても、あえてそれを押し付けるくらいのリーダーシップとか積極性を示したことで、最後は自分が責任を負うという覚悟を示したことになるわけです。
 それを行政と市民との関係にあてはめてみます。行政と市民との関係においても、行政施策の中に、そういう部分があってもいいのではないか。市民には反対者がたくさんいる。皆の意見を聞いて、数に従うことが本当にいいのか。もちろん、反対を押し切ってでも何かを行うとしたら、もし上手くいかなかった場合、責任は非常に大きいわけです。しかし、それだけ責任を被るという側面があってもいいだろう。少し乱暴な言い方ですが、パートナーシップであるとか、協働とかいろいろ言われている中で、行政のリーダーシップを発揮する場はないのか。その点を見直してみる必要があるだろう。
 では、どういう場面で、行政がリーダーシップを発揮する必要性が出てくるのか。それに関連して、もう一つお話いたします。種々のプロジェクトがあって、行政が施策に優先順位をつける場合、どう論理に従うだろう。首長は選挙で選ばれるので、票をたくさん稼がなくてはなりません。そうすると、多数に支持されるような施策を上位にしがちだと思います。
 しかし、本来行政が行わねばならないことは、ちょっと乱暴な表現ですが、多数者に支持されないものなのです。多数者が望んでいるのなら、市場が成り立ち、民間でできるはずです。本当に大切であることを、少数者しか知らないことが結構あります。それをやらなかったら、その地域の将来にとっていい影響がないということを、首長なり行政が判断したとき、あまり多くの人は支持してくれないが、敢えてそれをやらねばならないという場面があるかもしれない。もし、選挙で票をたくさん稼ぐことに気を取られ、多数の人が拍手しそうなことを優先順位の上位にしていたら、もう少し頑張れば民間でできるかもしれないものにまで行政が手を出し、予算を組んで実施してしまうことになりかねません。多数の市民から支持を得られるものが、全て善であるか。そうとばかり言えない面もあります。
 そういうときにどうするか。私は、首長なり行政の見識だと思います。大衆が必ずしも支持するわけではないが、熟慮すれば非常に大事であることは、世の中にたくさんあります。そういうものにこそ目を向けるのが、行政の重要な役割です。つまり、そこにこそリーダーシップを発揮する場があるはずです。たくさんの人に意見を聞き、皆が賛成したことを選べばいいのだったら、何のことはないはずです。しかし、一見、大衆は余り支持しているように見えないが、大事であることを見つけ出し、予算を投ずるなりする場面があるに違いない。それを見つけ出し、政策の中で上位に置くだけの見識が求められるということです。
 パターナリズムは、親が子供に、あるいは先生が生徒に、医師が患者にいろいろ押し付ける、そういう場面に当てはまるような言葉ですが、行政と市民の関係においても、行政施策の中には、そういう要素あるいは必要性がかなりあるはずです。それがいつの間にか、数の論理に振り回されて、多数の支持を得ることが、唯一最大であるかの如くになってしまう。しばしばそれが、ポピュリズム、つまり大衆迎合に陥ってしまう。属に言うハイブローという言葉は、どちらかといえば支持者多数ではありません。いわゆるサブカルチャーといわれるものの方が、ずっと支持者多数なわけです。しかし、行政が指導的に何かをするとき、サブカルチャーの方が人気があるから、こちらに予算を出そうとか、施設を造ろう、そういうことでいいのか。その判断の問題です。多数者に支持されさえすればいいのか。決してそんなことはない。それをここでは強調したかったのです。
 また、同様のことですが、同時に、行政がリーダーシップをとったときに、本当はあまり賛同できないが、よく話を聞くと全体にとっては望ましいということを、理解できる市民であるべきだと思います。それは民度の問題です。経済学は個人のエゴを認めています。しかし、個人のエゴではなく、自分にとってあまり利益にならないが、社会全体で何が必要か、地域社会にとって大事なことを認め、行政施策に協力するのが民度の高い住民のあり方です。
 ガバナビリティという言葉があります。govern(支配する)にabilityをくっつけたものですが、統治能力と訳しているものもあります。渡部昇一さんに言わせるとそれは逆で、被統治能力、統治される側の能力を言っている。つまり、支配のしやすさを言っているわけです。しかし、統治しやすさということは、市民に理解があることです。協力できることは、社会全体の視点で物事を考えることができる市民である。つまり、自分のエゴの主張ばかりでなく、地域社会や共同体、社会全体の視点で物事を考える能力が大事です。それをどう高めていくかが、地域社会におけるもう一つの重要な課題であります。
 民度の高低を我々はよく言いますし、実感します。これは小学校の先生がよく知っています。転勤すると、地域の民度の違いを実感します。例えばPTAの集まりだとか、運動会など行事を行った際、地域によって協力してくれる度合いが全く違うそうです。しかし、建前論では皆同じと扱っている。民主主義は、すべて同じ民度である、すべての個人は同じ能力を持っている、同じように自立しているという前提で成り立っています。現実には、そんなことは絶対にあり得ない。地域社会にも民度の違いがある。それを同じように民度を高めるには、どうしたらいいか。それを行政が言うと、すぐ反発されますから、言いにくいとは思います。しかし、その側面は大事だということです。それがよくできないと、物事が上手くいかない。結局、大衆迎合的に事を終わらせてしまう。数の論理で動かされてしまう。それでは本当にいい地域政策ができないだろう。
 つまり、前・後半のお話で、最近の風潮である自立、自己責任は大事だが、それと正反対の視点から物事を考えてみる必要がある、ということを指摘したかったわけです。私は経済学が専門であり、昨今の経済学者の主張に対して、はなはだ批判があるので、それらも含めてこの機会にお話させて頂きました。
 ご静聴有り難うございました。

(質疑応答)
フロアから

 先生の講演をお聞きし、全てが自由になればいい、自立すればいいという最近の風潮に対して、強い疑問があったので、非常に理論的な内容に目が覚める思いをしています。小泉総理も自由化、民営化を進めています。例えば、ヨーロッパの都市などをみると、地域によっては住宅の色だけでなく、屋根の角度まで決めるなど、干渉しながら美しい地域を守っている。自然環境の保存もそうですし、商業においても閉店法があり、ドイツでは8時、スイスでは6時半などと営業時間を決め、ある程度コントロールしている。
 それに引きかえ、最近の日本では、1978年に大店法を取り払い、大型店が地方の中小都市に進出し、中心部の商店街が廃れました。自由に任せることの弊害が目立ちだし、おっしゃるような現実問題が日本の各地域で起こっていると思います。先生の話された理論を現実に即して実現していくのは非常に難しいのではないか。今の選挙制度、いわゆる民主的な方法では、多数を取らなければリーダーになる可能性もない。そうすると、多数を取れない状況の中で住民を説得し、リーダーシップを持った首長をつくることができるのだろうか。その首長が、民度も十分でないところで、住民の多数を得られない政策を実現できるのだろうか。現実の問題に直面すると思います。こうした問題をどのように解決していけばいいのでしょうか。

小林学長
 おっしゃることはよくわかります。当然ご理解の上で言われたと思いますが、一つご指摘します。簡単に言うと、今の流れはアメリカ式です。世界は広く、ヨーロッパとアメリカではかなり明確に違います。日本は専らアメリカ式に流れています。また、先ほどホリエモンさんのことに触れましたが、彼もアメリカ流です。ヨーロッパとは全然違うんです。世界は広く、いろいろな考え方があるということが、余り知られていない。専らアメリカ式に流れています。アメリカは独自の伝統と特徴を持った国で、ヨーロッパはまた違います。
 日本をもう一度見直すのに参考になる、たいへん良い本があります。ドーアというイギリスの社会学者は、日本をずっと研究され、「イギリスの工場、日本の工場」という本を書きました。日立製作所とEnglish Electricという会社を比較しながら分析し、日本の企業の特徴を書いた本で、非常に有名な本です。この方が数年前に、「Stock market capitalism, Welfare capitalism」、副題が“AngloSaxon VS. German and Japan”といいます。つまり、アングロサクソン対ドイツ・日本です。Stock market capitalismはアングロサクソンタイプで英米型、それに対してWelfare capitalismはドイツ・日本型であるとし、比較しながら分析しています。これは、日本社会を見るときに、大変参考になります。先日来のホリエモン騒動を見て、会社とは誰のものかなどと、日本のやり方が世界で特殊であるかの言い方をしていますが、そんなことはありません。もちろん特殊ですが、それがどのくらい良かったかということを、外国人が書いてくれています。もっとそういうところを理解する必要がある。マスメディアの影響は非常に大きい。どうしても視聴率という数の論理で動いてしまう。そうするとポピュリズム、大衆迎合的になる。流行り言葉のように言われて、押し流されていると思います。
 今言われたように、規制をもっと厳しくしなければならない部分があるというお考えは、全くその通りだと思います。大事なのは、都市というものは、ある種の公共財であると言えます。自分の家は自分が建てるのだから、どんな家を建てようと勝手だ、ということにはならないわけです。隣近所に影響しますから。これを経済学ではエクスターナリティ(外部性)と言います。視覚的にも影響を与えてしまいますから、どんな醜い家でも建て主の勝手とはならない。だれが見ても抵抗なく、良い家に見える家を建てた方が望ましいわけです。その消費において、他人が関係ないものは私的財です。しかし消費の際に、周辺に影響を与えるものは公共財的な性格を持っており、広く影響を与えるものが純粋公共財です。その意味で、都市の施設は公共財です。一企業がビルを建てるにしても、周辺に多大な影響を与えるから、公共財的になる。街並みは、皆に影響を与える財をどうするかという問題であり、建てる人の勝手では済まないわけです。
 私は、札幌はとても素晴らしい魅力的な都市だと思います。北海道のことを考えれば、仙台や広島、福岡に比べ、札幌がどれだけ魅力を発揮するかが決め手だと思います。しかし、他に比べて劣っていると思うことがあります。それは、例えば駅前の真ん前に、一番目立つのがパチンコ屋です。言っては悪いですが、これは田舎です。そういう田舎の要素を抱え込んでいます。急速に人口が増え、大都市になってしまったから、かつての数万都市の感覚を引きずっているところがあると思います。私ははっきり規制すべきだと思うし、真ん中の、一番いい場所に建っている建物が売りに出されたとき、某サラ金業者が手を挙げたことがありました。それも規制すべきです。東京銀座4丁目で、売りに出たからとその手の会社が買い取ったとき、周辺のプライドのある老舗は賛成するだろうか。それを自由競争とか、資本主義の原理だけで片付けてよいなどということは、絶対ないと私は思います。やはり首長が、異論のある者が多少いても、思い切って独断専行する面があっていいと思います。次の選挙で勝てないかもしれないが、そのくらいのリスクを冒してほしいというのが、私の言いたいことであります。


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