ま と め 北海道都市地域学会副会長 佐 藤 馨 一 |
本日の都市問題会議は30回目という節目であり、企画委員会でテーマについて非常に悩みました。現在、私たちが都市問題と考えていることが、ことごとく否定されてきています。例えば、郵政の民営化などまさにそうであり、地域のいろいろな苦しさに対し、それこそ「嫌なら出ていけ」という感じで整理されています。そのことが都市問題として捉えられなくなってきたときに、当会議を開催する難しさがありました。 そんな中、小林先生のパターナリズムの本が出て、これを視点にもう一度組み立て直してみたわけです。今日のお話にあったように、ホリエモンのような人たちだけで、我が国がつくられているわけでないし、ヨーロッパの考え方もあるということを、もっと勉強しなさいというご指摘は、非常に大事なことであると思います。小林先生の基調講演、それをベースにした各分科会では、座長がいろいろ苦労されながら本会開催が実現し、心からお礼申し上げます。 パターナリズムとは何かというお話の中で、私が一番分かりやすかったのは、「家族の幸せは私の幸せ」という言葉です。「地域の幸せは私の幸せ」と考えてどこが悪い、という説明をされました。私の幸せは私のものというのが、まさに現在の市場主義の主流といわれるような考え方とするなら、「家族の幸せは私の幸せ」という捉え方を大事にしたいと思います。 今回の分科会で最も興味を持ったのは、パターナリズムから一番遠いと考えられた「観光」のテーマがあったことです。座長の内田先生も、この分科会はマーケットにおける観光について取り上げるが、パターナリズムにどうつなげるか難しいと最初に話されました。ところがこの分科会で、ウィンザーホテルの窪山社長が、新しいホテルのコンセプトを、マーケティングではなく、社長の独断で決定し、お客に提示し、客がそのコンセプトを受け入れ、高い支持を得て売り上げを伸ばしていると語られました。それを聞いたとき、このテーマ設定でよかったと実感しました。市長や町長を含め、為政者はもっと独断専行してもいいのではないかということが、小林先生の最後の提案でありました。 独断専行する見識を持てと言われましたが、その見識はどこから生まれるのか。小林先生のテキストの中には、「ある種の許容による」という表現に止まっております。私は、ある種の許容とは何かを考えてみました。オペラ鑑賞ではなく、歴史の勉強であると思います。 ここに1冊の本があります。中公文書「歴史のしずく」ですが、宮城谷昌光という、中国の歴史小説を書いている方が、自分の作品の中から言葉を選び出したものです。この本は、いろいろな名言集の中でも、とても分かりやすいものです。 そこにこういう一文があります。『人民が喜ぶ政治のできる君主の性格は、実は温容でもなく、寛容でもなく、本来は激烈なはずだ』。やはり独断専行する激烈さがなければ、名君といえない。そして『その激烈さを隠さず、露呈する君主は、暗君や暴君になる』と書いています。激烈さは持っていいが、それを包み隠したり、悟らせないことが知恵者たるものであり、名君と暴君の分かれ目であるということです。 さらに、『為政者はその個人がどれほど優れていても、民の賞賛を得られない。為政者がどのような助力者を選ぶか、そこに民の判断が集中する』とも書いてあります。為政者自身がいかに優れていても、自分の支援者やパートナーをどのように選び、それを生かし、その意見を聞く能力があるか。反対に、完全に自分の意志だけを通し、イエスマンだけを選ぶかということです。中国4000年の歴史のエッセンスが、この本にあります。独断専行する見識を持つためには、歴史を学ぶことが必要であるし、助力者を的確に選ぶ必要があります。 我が北海道都市問題会議の参加者、北海道地域都市学会の会員は、まさにこの適切な助力者になろうと意欲を持っております。そして本日参集された方々は、さらにその能力を高められたと思います。こうした会に参加し、意見を交換し合い、人と接すること自体を連ねていくことが、北海道の次代の社会・地域をつくっていくと思う次第です。 簡単ですが総括とさせていただきます。どうも有り難うございました。 |
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